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神社一覧 南九州


台明寺 霧島市国分

daimyoji


contents:

鎮座地/御祭神/神事・例祭/由緒/概要/青葉の笛/平家物語/ 考察/


鎮座地

 
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■所在地: 鹿児島県霧島市国分・台明寺1103 北緯31度46分13秒,東経130度48分35秒 ■連絡先: 霧島市(0995-45-5111) ■交通 : バス:国分〜郡田、終点下車、 歩10分、台明寺渓谷手前


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御祭神

No 名称 垂迹 本地 摘要 備考
本尊 阿弥陀如来 天台宗・一時真言宗
夾侍 観音菩薩 勢至菩薩


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神事・例祭

例祭名概要摘要
毎月15月例祭
48保食大神祭(馬頭観音)
630大祓
715ご巡幸祭(六月灯)
1115例祭


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由緒

 
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竹林山衆集院・台明寺

地頭館の寅方 一里五町 山路村にあり 國分弥勒院の末にて 天台宗なり 本尊阿弥陀如来 夾侍観音・勢至菩薩 この本尊の堂宇方三間あり 建治3年(1202)十月十九日 得佛公是を造立し給へり、 當寺の由緒を按ずるに 天智天皇御勅願として創建あり 国家鎮護の道場とす 其年月は詳ならず、 又 天皇いまだ皇太子にて 筑紫へ御下向の時 此地へ過臨あり 當山の地 青葉の笛の名産ある故に 笛竹の貢御所に定めらる 是より笛竹の名天下に高し 其後中古までは 将軍家の御祈祷所となれり 開山の僧名は傅はらず 往古は、法曹宗なり 伽藍宏壮にして 佛法興隆の霊窟なりしに 天智天皇の御時より 四百年余を歴て 寺院衰廃せしにや 天承保延の頃 天台宗僧行玄上人重建して (1131〜1141) 是に住職し天台宗に改め 叡山の末寺となる 其後星露を経て 節山公の御時 永正年中 命ありて 真言宗に改め 栄賢の間 住持四十四世ありしといひ傅れども 其名詳ならず 真言宗に改めし時は 本田氏の所領にして 清水城の鬼門に當る 故に祈願所とせり 島津右馬頭忠将所領の時もでも ・・・・・・ 第十六世に當りし 解遍法印が時 享保11年、丙午八月 宥邦公命して 天台宗に復し 國分弥勒院中興 憲英法印を以て 中興開山とし 即ち彼院の末寺となる 是歳快遍は、郡山花尾山曼荼羅寺の 住職となれり ・・・・・・・ ==== 三国名勝図会 3-126 ===== daimyoji_tendai
保存の由緒書き「青葉竹由来」 (三国名勝図会)によると、 境内に自生の其の竹を伐取、 先ず国分府中村の鏡の池に浸し置きて、 清水村姫木村妙見社に奉納し、 是を京都へ貢せしとぞ。 税所介曽於郡主の時は 此笛竹を宰領して上京すといへり。 **** 天文15年(1546) **** 瀬戸口伝左衛門文書写 古記p130
■天智天皇の頃  當寺の由緒を按ずるに  天智天皇御勅願として創建あり  国家鎮護の道場とす  其年月は詳ならず、 ■長久2年(1041) 大隅」国司庁宣 可且加制止 且搦進其身 台明寺山邊所在雑木伐運雑人等事 ■長久4年(1043) 国府 贈於郡司 可任先符旨 重以制止 台明寺傍示内山野狩鼠雑人等事 ■天喜3年(1055) 大隅」国司庁宣 可任代々禰宜旨 永停止台明寺山四至内狩事 ■天喜4年(1056) 橘成友起請文 不可自今以後蝋 台明寺山禁制殺生境 須波留加多 毛止の西訓木尾より内佐古状 ■大治5年(1130) 宗岡重武田地売券 ■天承元年(1131) 八幡正宮執印僧行賢寄進状 寄進台明寺毎年九月中旬三箇日 日夜不断大念佛燈油佛聖僧供新 僧侶行賢  (惟宗「島津忠久」の子で正八幡宮執印)
 
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正宮執印僧行賢寄進状

康治元、九(1142) 正宮(大隅國正八幡宮)執印僧行賢敬白 奉寄臺明寺衆集院阿弥陀堂 毎日佛聖米斤万得領田玖段事 在曾於郡 一条三里九坪捌段字楠本 同条四里十九坪内壺段字久保山 右行賢以去寛治元年 親父惟宗朝臣在任時 ====>>初代島津忠久(但し薩摩には下向せず) 下向當國、有事縁、時々参詣於彼寺(ム矢) 住僧等尋菖跡 致二季彼岸 不断經勤之處 本自為無依無枯之洞 只難相憑(つきもの)十万檀那之助成 豈(あに)以難遂将来哉 因茲(ここに) 買得便宜水田 取國判等 施人於彼供(米斤)先華 而於毎日佛聖者 依無其(米斤)田 為便宜之故 雛不足年中之相折  永以所施入件領田九段也 仰乞 植善苗於身田 結雅果於心樹(ム矢) 仍(よって)奉寄如件 康治元年九月廿日(1142) 執印僧行賢敬白 ====== 台明寺文書(古記 9,10) ====~
■天承保延の頃(1131〜1141)  寺院衰廃せしにや  天台宗僧行玄上人重建して  是に住職し天台宗に改め  比叡山の末寺となる ■建治3年(1202)十月十九日 本尊の堂宇方三間 得佛公是を造立し給へり、    ■建仁3年(1203)  忠久公(1代)御願書写   ■正嘉元年(1257):  日枝神社 鐘楼堂   ■文永8年(1271)  将軍家御祈所大隅國台明寺雑     ===== 台明寺文書 p25 ==== ■寛正年間(1460-1466)  日枝神社  立久公(11代)御再興棟札  立久公:永享4年(1432)-文明6年(1474)   ■永正年中(1504-1521)  節山公の御時(立久)  命ありて  真言宗に改め   ■永正13年(1516):  日枝神社 造営書   ■慶長6年(1601):  日枝神社  40石の目録有り、寺社調あり   ■元和2年(1616):  日枝神社改築   ■享保11年、丙午八月(1726) 第十六世に當りし 解遍法印が時 宥邦公命して 天台宗に復し 國分弥勒院中興 憲英法印を以て 中興開山とし 即ち彼院の末寺となる 是歳快遍は、郡山花尾山曼荼羅寺の 住職となれり  ■天明葵卯(3年)正月17日−18日(1783)   ===>>橘橘南谿・西遊記(青葉の竹)      案内の小浜彦四郎、惣次郎等4人で参詣   青葉の竹を所望し歓喜している      唐人の庵・明王寺で宿を断られ   寒風の中トボトボ歩く姿が痛々しい。   老夫婦の農家に宿泊、貧しさに絶句している。   ■寛政4年4月29日(1792)   ===>>高山彦九郎・筑紫日記      平嶺喜蔵の案内で台明寺と日枝山王社に詣でる   青葉の竹ニ本を得る    ■明治初年(1870)  日吉山王権現を日枝神社に改名  県社・日枝神社    廃仏毀釈により  台明寺は廃寺となる  


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概要

daimyoji ☆02/2/23:地元の歴史研究会
其の後父の介護に追われご案内は2回のみ。
daimyoji ☆青葉の竹
daimyoji daimyoji
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daimyoji 台明寺〜日枝神社間の水神 daimyoji

日枝神社鳥居
(右上に磨崖仏)

参道(左側に磨崖仏)

青葉竹と境内

保食神・宇気母智神

三手先組物,海老虹梁

五輪塔

磨崖仏(参道中)

磨崖仏(参道入口右)


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考察

 
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三国名勝図會
創建について
  1. 止上神社の別當院であった「乗林寺」は この台明寺二世侍持の竹林坊の開山である。
  2. また、この乗林寺の四世侍持には性空上人の 掲載が見える。 今昔物語では、性空上人は、26歳の時に出家して霧島山に籠って修行を されている。 霧島での修行期間は10年余りだ。 上人は平安時代中期の僧で、生年月日は定かで無い。 没年は、寛弘4年(1007)、98歳と云われている。 但しこの没年も定かではないらしいのだが、、 一応、逆算して生年月日は910年頃とすると 霧島山の修行期間は936-946頃になる。 この頃に、侍持をされていたことになる。
  3. 性空上人の在地期間を、 承平6-天暦4頃(936-950)とすると 少なくとも「乗林寺」の創建は9世紀初頭前後だろうか
  4. 従って、この台明寺の開山は、 この四・五十年前の8世紀中頃だろうか
天智天皇行幸伝承について
  • また、台明寺所縁の「青葉の笛」伝承にも 天智天皇の伝承があるが。。(3-142) 天智帝筑紫に六年まで止り給ふ その間に九州の地を巡見遊ばし大隅国にいたり給ふ この出自はここか ◎27天智天皇即位前紀斉明天皇七年(661)七月是月 ◆是月。 蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。 皇太子遷居于長津宮。                ====>>「長津宮」は博多の大津 稍聽水表之軍政 ●27天智天皇六年(667)三月己卯《十九》 ◆◆三月辛酉朔己卯。 遷都于近江。 ========>>近江に遷都、 是時天下百姓不願遷都。 諷諌者多。童謠亦衆。日々夜々失火處多。
    青葉の笛について
    1. 図会には神社寺院が掲載。日枝神社との関連が深い
    2. 青葉の笛は当時一世を風靡したと見えて あちこちに散見される。
    3. 本堂の 建治3年(1202)十月十九日 得佛公是を造立し給へり、 この得佛公は、島津藩の祖・忠久だが 島津は三代迄当知行地には下向していないはずだが、、 命によって建立したのだろう。
    4. 現存する「青葉の笛」の一本は、 源義平の所持していた品らしい。
    5. 源義平が所縁の福井県和泉村では、 毎年「青葉の笛フォーラム」が 開催されている。
    6. 全国の寺社を参詣したり遊学した者の中には この台明寺の青葉の笛の取得目的で当地を訪れたようで、 「青葉の竹」を懐に忍ばせたとある。
       
      pin.gif 笛竹の 古き昔を 音に聞て  尋ねし山の かひそ有りける     ==== 高山彦九郎 ====
    7. 「東西遊記」を記した 医者の橘南谿は、大隅八幡の参拝し、新川を渡り この台明寺に詣でている。 正月の頃で、新川を渡った山寺で一宿を断られ 闇夜をとぼとぼ台明寺めざし雨の中歩いている様が 痛々しい。 しかし、この青葉の笛を譲り受けて小踊りしている 様子が救われる。
    nankei ☆豪雨の闇夜をトボトボと。。。

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    青葉の笛と平敦盛

     
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    平家物語・百二十句本
    (国会本)巻九
    熊谷の次郎直実は、 「よからん敵がな、一人」 と思ひて待つところに、 練貫に鶴ぬうたる直垂に、 萌黄匂の鎧着て、連銭葦毛なる馬 に乗つたる武者一騎、 沖なる船に目をかけて、 五段ばかり泳がせて出で来たる。 熊谷これを見て、扇をあげ、 「返せ。返せ」とまねきけり。 とつて返し、 なぎさへうちあぐるところを、 熊谷、願ふところなれば、 駒の頭を直しもあへず、 おし並べて組んで落つ。 左右の膝にて敵が鎧の袖をむずと押さへ、 「首を掻かん」 と兜を取つておしのけ見れば、 いまだ十六七と見えたる人の、 まことにうつくしげなるが、 薄化粧して鉄〓つけたり。 熊谷、 「これは平家の公達にてぞましますらん。 侍にてはよもあらじ。直実が小次郎を思ふ様にこそ、 この人の父も思ひ給はめ。 いとほしや。助けたてまつらん」 と思ふ心ぞつきにける。 刀をしばしひかへて、 「いかなる人の公達にておはするぞ。 名のらせ給へ。助けまゐらせん」 と申せば、 「なんぢはいかなる者ぞ」と問ひ給ふ。 「その者にては候はねども、武蔵の国の住人、 熊谷の次郎直実と申す者にて候」 と申せば、 「なんぢがためには、よい敵ごさんなれ。 なんぢに合うては名のるまじきぞ。 ただ今名のらねばとて、つひに隠れあるべきものかは。 首実検のあらんとき、やすく知られんずるぞ。急ぎ首を取れ」 とぞのたまひける。 「あはれげの者や。ただ今この人討たねばとて、 源氏勝つべきいくさに負くべからず。 討ちたればとても、それによるまじ」と思ひければ、 「助けたてまつらばや」 と、うしろをかへりみるところに、 味方の勢五十騎ばかり出で来たる。 「直実が助けたりとも、つひにこの人のがれ給はじ。 後の御孝養をこそつかまつらめ」 と申して、御首掻いてんげり。のちに聞けば、 「修理大夫経盛の末の子に、大夫敦盛」 とて、生年十七歳にぞなられける。 御首つつまんとて、鎧直垂をといて見れば、 錦の袋に入れたる笛を、引合せに差されたり。 これは、祖父忠盛笛の上手にて、 鳥羽の院より賜はられたりけるを、 経盛相伝せられたりけるを、 名をば「小枝」とぞ申しける。 熊谷これを見て、 「いとほしや。今朝、城のうちに管絃し給ひしは、 この君にてましましけるにこそ。当時、味方に、 東国よりのぼりたる兵、幾千万かあるらめども、 合戦の場に笛持ちたる人、よもあらじ。 何としても、上臈は優にやさしかりけるものを」 とて、これを九郎御曹司の見参に入れたりければ、 見る人、聞く者、涙をながさぬはなかりけり。 それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける。 「狂言綺語のことわり」といひながら、 つひに讃仏乗の因となるこそあはれなれ。

     
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    平家物語 巻の九 「敦盛最期」
    (岩波文庫本より)
    軍破れければ、 熊谷次郎直実「平家の君達助け舟に乗らん」と、 汀の方へぞ落ち給ふらん。 哀れ好らう大将軍に組ばやとて、 磯の方へ歩まする処、練貫鶴縫うたる直垂に、 萌黄匂の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、 金作の太刀を帯き、切斑の矢負い、 繁藤の弓持て、 連銭葦毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乗たる武者一騎、 沖なる船に眼を懸て、海へさと打入れ、 五六段計泳がせたるを熊谷、 「あれは大将軍とこそ見参せへ。 正なうも敵に後ろを見させ給う者哉。返させ給へ」 と、扇を揚げて招きければ、招かれて取って返す。 汀に打上らんとする所に、 押並て、むずと組んでどうと落ち、 取て押へて頚を掻んとて、 甲を押仰けて見れば、年十六、七ばかりなるが、 薄化粧して鉄漿黒也。 我子の小次郎が齢にて、 容顔誠に美麗なりければ、何くに刀を立べしとも覚えず。 「仰如何なる人にてましまし候ぞ。 名乗せ給へ。扶け参せん」 と申せば、 「汝は誰そ」と問給ふ。 「物其者だは候はねども、武蔵国の住人熊谷直実」 と名乗申す。 「さては汝に逢ては名乗まじいぞ。 汝が為には好い敵ぞ。 名乗らずとも頚を取て人にとへ。見知うずるぞ」 とぞ宣ひける。 「あわれや大将軍や。此人一人討奉たりとも、 負くべき軍に勝べき様もなし。又討たてまつらずとも、 勝つべき軍に負る事もよ有じ。 小次郎が薄手負たるをだに直実は心苦しう思うに、 此殿の父、討たれぬと聞いて、如何計か歎き給はんずらん。 あはれ扶け奉らばや」 と思ひて、 後をきと見ければ、土肥、梶原五十騎計で続いたり。 熊谷涙を押て申けるは、 「助け参せんと存へども、御方の軍兵雲霞の如く候。 よも逃させ給はじ。人手にかけ参せんより、 同くは、直実が手に懸参らせて、後の御孝養をこそ仕候はめ」 と申ければ、 「唯とうとう頚を取れ」と宣ひける。 熊谷余にいとほしくて、 何に刀を立つべしとも覚えず、目もくれ心も消果てて、 前後不覚に思えけれども、 さしても有るべき事ならねば、泣々頚をぞ掻いてける。 「あはれ弓取る身程口惜かりける者はなし。 武芸の家に生まれずは、 何とてかかる憂目をば見るべき。情なうも討奉る者哉」 と掻口説き袖を顔に押当てて、さめざめとぞ泣居たる。 やや久うあて、さても在るべきならねば、鎧直垂を取って、 頚を襄まんとしけるに、 錦の袋に入たる笛おぞ腰に差されたる。 「あないとほし、此暁城の内にて、管弦し給ひつるは、 此人々にておはしけり。 当時御方に東国の勢何万騎か有らめども、 軍の陣へ笛持つ人はよも有じ。上臈は猶も優しかりけり」 とて、九朗御曹司の見参に入たりければ、 是を見る人涙を流さずという事なし。 後に聞けば、 修理太夫経盛の子息とて、 生年十七にぞ成れける。 其よりしてこそ、 熊谷が発心の思いはすすみけれ。 件の笛は祖父忠盛り、笛の上手にて、 鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。 経盛相伝せられたりしを敦盛器量たるによって、 持たれたりけるとかた。 名おば小枝とぞ申ける。 狂言綺語の理と云いながら、 遂に讃仏乗の因となるこそ哀なれ。 平家物語 巻の九 「敦盛最期」(岩波文庫本より)
  • 小枝:さえだ
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    笛等伝承の奨励
    天武天皇十四年(685)九月戊午《十五》◆戊午。 直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者。 直廣肆石川朝臣虫名爲東山使者。 直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者。 直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者。 直廣參路眞人迹見爲南海使者。 直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者。 各判官一人。史一人。巡察國司。 郡司及百姓之消息』 ▼是日。詔曰。 凡諸歌男。歌女。笛吹者。即傳己子孫令習歌笛。


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    秘佛敦盛観音
    何と 「徐福渡来」 の伝承のある「冠岳」に 秘佛敦盛観音 が安置されている、 冠嶽山鎮国寺頂峯院 2/7には その秘仏の御開帳がある、 当日は 薩摩琵琶奉納「小敦盛」 朗読「縁〜敦盛と直実」 等の演目が奉納される。 開催時刻:AM10〜
    鎮国寺


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    唱歌:青葉の笛
    明治後半、唱歌で普及した。 題名:青葉の笛 敦盛 と 忠度 作詞:大和田建樹 作曲:田村虎蔵 作曲年:明治39年 ■一番■ 一の谷の 軍(いくさ)破れ 討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ 暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛 ■二番■ 更くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き わが師に託せし 言の葉(ことのは)あわれ 今わの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは「花や 今宵(こよい)」の歌 下記サイトにMIDIメロディーがあります。 おやじの旧い唄:MIDI

     
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    青葉の笛
    この2007年秋 隼人町の歴史研究会の 秋の歴史探訪に出席した。 大隅半島の 太平洋岸の古墳や史跡探訪 いつかは訪れたいと思っていた。 いい機会下見のつもりで参加した。 その探訪先の塚崎古墳群の ある一角に建つ 肝属町歴史民俗資料館 に 何と「青葉の笛」が 展示してあった。 ガイドをお勤めになった先生も 笛を辿って当地の日枝神社や 稲荷神社を参拝されたとのこと。 どのような仔細で 伝承されたか不明だが それにしてもよくぞ残ったものだ。 aobafue.jpg


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    一の谷剣舞
    去年辺りから 父との同行二人旅は 日南方面が多くなった。 今度は どんな祭りがあるかなと パンフレットを見ていたら 何とこの「平敦盛」の剣舞があるそうだ。 以前は伝統芸能の宝庫「西米良」で舞われて いたそうだが、 昭和48年の集落移転により 現在は麓地区で継承されているそうだ。 来年(2008) 父と見物できたらいいな。 一の谷剣舞:須木村 2007年現在:小林市須木 小林市須木庁舎地域振興課 TEL:0984-48-3111 FAX:0984-48-2269 参照サイト: 歌と芸能101

     
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    神楽:青葉の笛
    「青葉の笛」 の演目で 神楽が舞われているのでご紹介 尚、動画もある。必見。 中川戸神楽団 http://5000ban.com/index.htm リンク集の「神楽」に 掲載してあります。 中国山地の山のふところに囲まれた 広島県山県郡・高田郡一帯は 「神楽どころ」である。  戦後は高田舞いと称する 八調子の神楽を導入して 神楽の伝承保存に つとめてまいりました。 演目に業平の「青葉の笛」がある。

    
    
    竹林山衆集院・台明寺 歴代住職一覧
    pin.gif 竹林山衆集院・台明寺 歴代住職一覧 (古記p128)
    歴代住職名摘要備考
    1開山大僧正行玄天台宗
    2竹林坊乗林寺の開山
    3俊恵房阿闍梨究竟の歌皷平家物語巻五
    治2(1178)
    1榮賢阿闍梨永正年中(1504-1521)中興真言開山
    2快賢
    3寛遍天文年中
    4精譽
    5憲譽
    6精宥
    7来清
    8精賢
    9成伝
    10盛阿
    11盛忠
    12直盛
    13盛意
    14覚岸
    15覚英
    16快遍享保11年(1726)天台宗に復す
    郡山花尾山曼荼羅寺
    1鷲峯鼻祖
    大僧都憲英和尚
    再天台改宗中興
    2寂鷹阿闍梨
    3憲端
    4英良
    5憲厳
    6良宣
    7憲盛
    8憲林
    9見定
    10良義
    ■この寺院は、大僧正阿闍梨と云った高僧が開山されている。  国家鎮護の祈願所だったことが頷ける。 ■  2世 竹林坊 止上神社・別当院「乗林寺」開山    ===>>これにより、開山は、台明寺、乗林寺、弥勒院 の順となる ■天承保延の頃(1131〜1141)  天台宗僧行玄上人重建して  是に住職し天台宗に改め  叡山の末寺となる ■元文3年戊午天(1738)  寂鷹大和尚、中興祖2世 ■文久2年(1862) 法印 覚淳 墓碑 ■天保11年(1840) 第11世 紫雲院 法印   
       


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