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神社一覧 南九州


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龍宮の亀石


contents:
★鎮座地/★御祭神/★由緒/★神宮の歴史/★神事・例祭/ ★概要/ 分社・勧請社/★社家/★南北朝動乱/ ★時宗の聖地/★大比留女/ ★四所若宮/ ★火災時の遷座地/ ★ご神体について ★ご霊とご陵墓/ ★社領地/ ★古代からの依処/ ★歴史的背景/ 橘 三善 参拝について/ ★郷土玩具/ 旧鹿児島神社(石體神社)

鎮座地

 
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■所在地:  霧島市隼人町宮内   ■連絡先:  鹿児島神宮(0995-42-0020)   ■交通 :  ○隼人駅から歩15分  ○バス (循環バスか霧島行)で神宮前下車  ○バス鹿児島空港から鹿屋行   京セラホテル前下車歩15分     ○隼人塚から223号線を霧島連山を眺めながら   北上する旧街道はお勧め。   西郷や龍馬に思いを馳せて。。  ○隼人駅下車の場合、   駅前でレンタル自転車が便利   
  
  隼人コース
隼人史跡巡り順路


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御祭神

No 神社名 位置所在
祭神 摘要 備考
鹿児島神宮







延喜式神名帳 大隅国一宮大社 旧大隅國正八幡宮


本殿
日子穂穂手見尊(山幸彦) 豊玉姫命(妃)



海幸彦・山幸彦 古来の地主神か


相殿
14代・仲衰天皇
(帯中津彦尊)
神功皇后(妃)
(息長帯姫命)
*15代・応神天皇
(品陀別尊)
中比賣皇后(妃)

*宇佐八幡大神
熊襲討伐
○神功皇后は朝鮮新羅進攻
○宇佐神宮の別宮時代あり
日本書紀卷第八
 足仲彦天皇 仲哀天皇 仲哀天皇即位前紀(190-191)
◆足仲彦天皇。日本武尊第二子也。
母皇后曰兩道入姫命。活目入彦五十狹茅天皇之女也。
天皇容姿端正。身長十尺。

四所神社 境内
*大雀命(16代仁徳天皇) *荒田郎女命 *根鳥尊 岩姫命(16代妃)

*八幡神(15代応神天皇)のお子等 仁徳天皇の妃には
髪長媛
都城市早水神社

武内神社 境内
武内宿禰




景行(70-130)〜仲哀天皇(191-200)に使え功労・武勲
○巨勢・平群・葛城・蘇我の祖とも
○隼人末裔・弥五郎の祖?
石清水八幡宮の宮司の祖?

隼風神社(ハヤカゼ) 境内
日本武尊




熊襲討伐の勇・拍子橋伝説
女装し川上猛を討つ
○霧島六所権現の白鳥伝承
14代仲衰天皇の父君
景行天皇(70-130)のお子小碓命
○2010年現在では神話上の架空の人物

旧紀では鉾、もしくは豊玉彦

雨之社 三の坂前
豊玉彦尊
(航海の神)





綿津見神之尊・紀の父君 旧記では猿田彦、明治に変更か

御門社(ミカド) 御神橋畔 櫛磐間戸尊




随神
豊磐間戸尊




随神

三之社(ヤシロ) 二之鳥居前 火照尊
(海幸彦)
隼人の祖
大隅尊
(隼人の首長:弥五郎?)




俳優(わざおぎ) 天皇の守護
豊姫命
(神功皇后の妹)
磯良尊
(海人・安曇氏の祖)






武禦槌尊
(相撲の神)鹿島神宮
経津主尊
(交渉・協議の神)香取神宮




2神とも抗戦の交渉・協議神
春日大社の主祭神
国譲神話・相撲相手は建南方

末社
稲荷神社
本宮後方 宇賀魂命
(豊受姫・保食神・穀物の神)
大宮売命
(天鈿女命・芸能の神・神舞)
猿田彦尊
(道祖神・大宮売命と夫婦)



嶋津藩の氏神として勧請 ○稲荷は秦氏の祖霊神とも
○猿田彦尊は旧記では「雨宮」に鎮座、明治に変更か

末社
山神神社
本宮後方 大山祇尊




木花咲耶姫の父君(祖父) 春里に降り「田の神」にもなる

末社
祖霊社(大多羅知女神社)
本宮後方150m 息長帯媛命




14代仲衰天皇の妃
神功皇后だがどうして末社?
古来の「大比留女神」を祭祀か

摂社
石體神社
北東200m 日子穂穂手見尊




旧高千穂宮址 延喜式の頃の鹿児島神社址

末社
保食神社
参道入口 宇賀魂命
(豊受姫・保食神・穀物の神)





初午踊りの開始地点

末社
鑰島神社
浜の市 火闌降命(火照命) 隼人命 大隅命 応神天皇 神功皇后 豊玉姫命 社殿焼失時の鑰預かり


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守護分社・勧請社

◆◆守護分社(神宮史p29)◆◆

No分社名所在地摘要備考写真
1:東方投谷八幡大隅町大谷昔は神宮の東に位置した随神東方守護
2:西方荒田八幡鹿児島市下荒田西方守護
3:南方鹿児島大明神下宮神社:垂水市南松原町(垂水中隣)昭和20年戦災で焼失南方守護
4:北方正若宮八幡勝栗神社:栗野町米永北方守護

 
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  1. 鹿児島神宮を核として東西南北を守護する。
  2. この範囲からしても当時、正八幡は広大な社領地を 有していたことが何える。
  3. 2度の元寇の抗戦に大勝利を治めたのは 「八幡様の神風の御加護」と 絶大なる信奉を得た宇佐八幡宮 その岩清水八幡宮の傘下にあった鹿児島神宮も 勢力を伸ばしつつあった武家集団が 原野を開墾しては社地として 競って寄進していたようだ。 ===>>宇佐神宮史参照
  4. 日子穂穂手見尊(彦火火出見尊:山幸彦)が ご神体の山岳修行の霊山
    • 屋久島:宮の浦岳
    • 熊本県球磨郡水上村:市房山
    • 大隅・串良:国見山
  5. 火照尊(海幸彦)がご神体の山
    • 桜島
    • 尾牟礼山(霧島国分)


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◆◆その他の勧請社(分社)◆◆

No神社名所在地 摘要(勧請由来等)備考
1的野正八幡宮崎県都城市山之口和銅三年(710)勧請す弥五郎祭
2早馬神社宮崎県北諸県郡三股町島津貴久(1550頃)奨励
3正八幡社大分市永興(りょうご)天平二十年(748)頃勧請745:近江地震多発飢饉関係ありか?
旧城跡に城南神社と連鎮座
4天満神社?延岡市北川町臼杵郡田貫田:蒙古襲来後の浮田荘元弘3(1333)頃:日向国図田帳
5串間神社串間市串間(日向北方駅近) 彦火火出見尊の狩場伝承2/20ねたろう祭
6月読神社鹿児島市桜島町横山旧御岳蔵王権現社桜島の祭神は「火照尊」伝承あり
7月読神社肝属郡串良町有里旧一ノ宮大明神例祭10/17,秋祭11/23
8大元神社鹿児島市桜島町松浦松浦の奉納舞あり桜島の祭神は「火照尊」伝承あり
9八幡神社(旧正若宮八幡宮)鹿屋市吾平町中福良応神天皇・鹿児島神宮四所分霊明治4年麓から現在地へ遷座
10大川内神社鹿屋市吾平町麓彦火火出見尊
11西宮神社鹿屋市吾平町上名彦火火出見尊
12深田神社いちき串木野市野元宮脇彦火火出見尊
13松山神社志布志市松山町新橋祭神不明・応神天皇か旧正若宮八幡社
14田上八幡神社日南市飫肥弥五郎祭
15蒲生八幡神社蒲生町大人隼人一時期別宮
16帖佐八幡神社姶良町(桜公園)一時期別宮
17飯富神社隼人町東郷彦火火出見尊火災時の遷座地、涼ヶ杜
18小烏神社加治木町反土(新生町)彦火火出見尊浜下りの安行地?
19小烏神社鹿屋市野里彦火火出見尊
20新田神社指宿市開聞町彦火火出見尊一時期社領地
21奈伊良神社長崎市津島市厳原町彦火火出見尊豆酘内院・大隈正八幡宮
22鹿児島神社鹿児島市草牟田彦火火出見尊桜島を核として三社
23高屋神社宮崎市村角町橘尊彦火火出見尊高屋之宮址伝承
24鷹屋神社霧島市溝辺町彦火火出見尊高屋山陵から遷座
25鹿児島神社喜界町彦火火出見尊旧八幡宮
26鮭神社福岡県嘉麻市大隈彦火火出見尊背フリ・元寇の報償地
27新田神社 児湯郡新富町彦火火出見尊・太々神楽JR日向新富駅車10分・イブクロ
28若宮神社 鹿児島市清水町彦火火出見尊・三之神輿10代貴久の頃勧請か?
29生目神社 宮崎市彦火火出見尊?

勧請社マップ

■今後追記します。


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神事・例祭

例祭名概要摘要
17七種祭
2初午祭馬踊り、奉納芸能旧1/18
4藤祭りかまど市旧3/10
6御田植祭苗代田植え、奉納芸能旧5/5
728六月灯先祖供養灯篭、茅ノ輪潜リ
87七夕祭御神宝かげ干し宝物陳列
9例大祭十五夜神事・隼人舞旧8/15
10ご神幸(お浜下)浜の市迄行列旧8/15

初午
初午祭
お田植祭
お田植祭
浜下り
浜下り
隼人舞
隼人舞(6分)


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由緒




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鹿児島神社

此餘臨時會あり 延喜神名式 大隅國桑原郡一坐 大 鹿児島神社 と載られしは、當社なり 初め彦火々出見尊 一坐にて 神武天皇の勧請と云 石清水伝記 曰 鹿児嶋神社 彦火々出見尊 也 神祇鈔曰 大隅國正八幡 火々出見尊也 興宇佐八幡不同 宇佐八幡は豊前国宇佐郡にあり ・・・・・・・・ 石躰宮は 彦火々出見尊の山陵と相傳ふ 今の正宮は 和銅元年御建立にて それ以前は石躰の地 即宮床(みやとこ)なり 又口碑に 鹿児島とは 今の宮内(みやうち)の事といひ ・・・・・・・・・ ==== 図会 3-29 ====

 
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  1. 延喜式神名帳では、大隅國一宮「鹿児嶋神社」
  2. 創建は、御祭神の 日子穂穂手見尊(山幸彦)豊玉姫命が示すように、 遠く神代の時代に始まる。
  3. また、平安時代に編簒された説話集の 今昔物語に 次のような一説がある。(第拾弐巻) ==京都大学電子図書館「今昔物語集」への招待より抜粋
    
    

    於石清水行放生會語第十

    今昔、八幡大菩薩、前生ニ此ノ國ノ帝王ト御シケル時、 夷□軍ヲ引将テ自ラ出立セ給ケルニ、 多ノ人ノ命ヲ殺サセ給ヒケル□。 初メ大隅ノ國ニ八幡大菩薩ト現ハレ在シテ、 次ニハ宇佐ノ宮ニ遷ラセ給ヒ、遂ニ、 此□石清水ニ跡ヲ垂レ在マシテ、 多ノ僧俗ノ神人ヲ以テ、員ズ不知ヌ生類ヲ令買 放メ給フ也。然レバ、公モ、此ノ御託宣ニ依テ、 諸國ニ放生ノ料ヲ宛テ、其ノ御 願ヲ助ケ奉ラセ給フ。此レニ依テ、 年ノ内ニ此ノ放生ヲ行フ事无量シ。 然テ、毎年ノ八月十五ヲ定テ、 大菩薩ノ寶前ヨリ宿院ニ下ラセ御マシテ、 此ノ放生ノ員ヲ申シ上グルニ、大キニ法會ヲ儲テ、 最勝王經ヲ令講メ給フ。其ノ故ハ、彼ノ經ニ、流 水長者ガ放生ノ功徳ヲ、佛説給フ故也。然レバ、 此ノ會ヲ放生會ト云フ。然テ、 其ノ下サセ御マス儀式實ニ嚴重ナル事、 新タニ御マス時ノ如シ。公モ此ノ御 行ヲ貴ビ奉ラセ給テ、行幸ニ准ヘテ上卿宰相ヲ始テ、 弁・史・外記等、皆、 参テ事ヲ行フ。亦、六衛府ノ陣モ、 各、兵杖ヲ帯シテ仕ル事、行幸ニ不異ズ。何ニ况ヤ、
    ==京都大学電子図書館「今昔物語集」への招待より抜粋 ====
  4. 八幡大菩薩は、先ず大隅の国、 すなわち現在の石体神社に鎮座され、その後 宇佐へ遷座されたとある。 本宮が正八幡を賜わる結縁である。 この京都の石清水八幡宮は、宇佐八幡宮から勧請された。 他に鎌倉鶴岡八幡宮がある。
  5. 鹿児島神宮史は、この「八幡」の本家争いを 次のように伝えている。
    
    
    
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    当宮を正八幡と云うが故に
    宇佐から十五人の使者が来て
    いずれかが正八幡宮であるかを調べて
    遂に当宮に火を懸けた。
    
    所が其の火は七日七夜が間燃えて、
    七日目に至り、
    煙の中に正の字が現れた。
    
    そこで
    宇佐の者も当宮が
    正八幡宮であると
    承知して帰ったが、
    その中の十三人は
    途中で死んだ。
    それが十三塚原である。
    他の二人は宇佐に帰り、
    よく物を云うことが出来ず、
    只手真似をして絶命した。
    
    皆神罰を被ったのである。
    
    ==== 鹿児島神宮史 p22 ===
    
    
  6. また、別の伝承は、次のようである。 ==>>石清水文書(天承2:1132)
    
    
    
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      宇佐の神主等が、
    当宮を正八幡と云うのを
    信じないので、
    三人の使者を使わして
    是を火かしめた。
    所が石体たちまち割れて
    中に正八幡の文字が現れた。
    三人の使者は
    大いに恐れて逃げ帰ったが、
    一人はその場で死に、
    一人は途中で死に、
    最後の一人が辛うじて
    宇佐へ辿り着き亡くなった。
    皆是神罰を被ったとある。
    
    ==== 鹿児島神宮史 p22 ====
    
    この出自は、三国名勝図会
    第三巻 P45 石體宮 にあり
    
    
    
    天承2年(1132) 大宰・藤原経忠 が、 「正八幡宮に石体二基出現せる」 を朝廷へ報じ 「正八幡」を冠することを 公に認知されている。

■ 磐座(石体)信仰について ■

ご神体の「大岩」は、旧神社(現石體神社)にあり 毎年神事が行われる。 また一方の宇佐神宮の御神体山「御許山(おもとやま)」には 三巨石を祀る「石体権現」があり 八幡信仰以前から祭祀されていた。


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神宮の歴史
年号西暦摘要備考出典
欽明5年 535 八流の幡降来り 当初は浜の市の鑰島神社の地に鎮座 桑幡社家伝
欽明29年 559 八流の幡降来り 宇佐神宮鎮座 宇佐託宣・宇佐神宮史
欽明32年 562 八流の幡降来り 韓国宇豆峯神社鎮座 宇佐託宣・宇佐神宮史
大宝3年 703 薩摩国府を置 国府は川内高城 続日本紀・他
和銅元年708 正宮建立 遷座:石体==>>現在地 今昔物語三国名勝図會B32
和銅6年713 大隅國を置く 割日向國肝坏。贈於。大隅。姶羅四郡。始置大隅國。 国分に大隅の国府 続日本紀・他
和銅7年714 平定のため、豊前国から移民す(200戸) 隼人昏荒。 野心未習憲法。 因移豊前國民二百戸。 令相勸導也。 続日本紀・他
養老3年719 大隅・日向隼人襲来打傾日本國 宇佐神宮史
養老4年720 大隅国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)殺害に発する抗戦 大宰府奏言。 隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。 続日本紀・宇佐神宮史
養老5年721 隼人討伐1,400人 征隼人副將軍從五位下笠朝臣御室。 從五位下巨勢朝臣眞人等還歸。 斬首獲虜合千四百餘人。 続日本紀・宇佐神宮史
天平宝宇8年764 海に島が出現 西方有聲。似雷非雷。 時當大隅薩摩兩國之堺。烟雲晦冥。奔電去來。 七日之後乃天晴。於麑嶋信尓村之海。沙石自聚。 化成三嶋。炎氣露見。 有如冶鑄之爲。形勢相連望似四阿之屋。 爲嶋被埋者。民家六十二區。口八十餘人。 続日本紀
宝亀9年778 新造島鎮護・大穴持神社創建,当宮官社 去神護中。 大隅國海中有神造嶋。 其名曰大穴持神。至是爲官社。 続日本紀・社伝
承和9年842澤氏法橋職 正八幡官執印別當
正ニ位法橋
桑幡家文書p212
延永5年927鹿児嶋神社 国幣社 延喜式神名帳
治安元年 1021 正五位下・藤原(税所)篤如・宮司職下向 大隅國正八幡宮・霧島神社・止上神社
税所を氏とし曽於殿と呼称さる
重久、最勝寺、姫木、芦江、川畑、馬場、妻屋川は同族
==>>國分諸古記・税所氏系図抄
三国名勝図会3-288
石築地役配符写
菖記雑録・宇佐神宮史巻2
國分諸古記・税所氏系図抄170
長元年中 1028-1037 造営 大隅國八幡宮 菖記雑録・宇佐神宮史巻2-?
長元年中 1028-1037 造営 日向國嶋津荘に
宇佐八幡以下を鎮守となす
宇佐神宮史巻2-563p
長元4年 1031 大宰府では元命をして大隅八幡宮を検地せしむ 神宮史p13 *宇佐神宮史巻2-559
*岩清水八幡宮記録
寛治2年2月 1088 藤原寛政、大隅正八幡宮神輿を射たるを議す 12月伊豆國に配流
大隅正八幡宮の公的な初見か
宇佐神宮史巻3-119p
岩清水八幡宮記録
寛治2年5月 1088 太宰大貳藤原寛政、大隅國正八幡宮の訴により
官を辭して上洛す
11月30日:伊豆國に配流(中右記1-32)
大隅國正八幡宮の公的な初見か
宇佐神宮史巻3-120p
岩清水八幡宮記録
寛治2年11月 1088 太宰大貳藤原寛政配流 11月30日:伊豆國に配流
前大貳寛政朝臣流伊豆國
宇佐神宮史巻3-120p
(中右記1-32)
岩清水八幡宮記録
寛治2年11月1088宮損失の神實を修造せしむ宇佐神宮史巻3-126p
岩清水八幡宮記録
寛治2年11月 1088 大江匡房の勘文、藤原通俊の議奏に、大隅國正八幡宮を宗廟と講す 大隅國正八幡宮の公的な初見か 宇佐神宮史巻3-132p
岩清水八幡宮記録
寛治5年12/13 1091 大隅國正八幡宮、焼亡す 寛治六年十二月十三日正宮御縁上有
同六年之5月御上洛有
承徳元年迄六年ヲ暦而御遷宮有
九州四頭栄之
==桑幡家文書p180==
宇佐神宮史巻3-154p
桑幡家文書p180
図会B32
岩清水八幡宮記録
大日本史
寛治6年2/15 1092 朝廷にて再建協議大隅國正八幡宮 戌辰、有陣定、此去年十二月
大隅國正八幡宮賓殿焼亡之事也
中右記1-113
嘉保元年11/121094 大隅國正八幡宮、焼亡す 図会B33
宇佐神宮史巻3-176p
岩清水八幡宮記録
大日本史
承徳元年 1097 大隅國正八幡宮
新宮竣工・遷座
承徳元年二月七日
正宮造立
同年六月正宮御炎上有
神宮史p27
桑幡家文書p180
図会B33
保安2年 1121 禰寝院南俣村(根占)を同宮御馬所検頼清に 貫首親助,大宰府領物負物等の代として 大隅国正八幡宮政所下文
宇佐神宮史巻3-264
天承2年 1132 大隅國正八幡宮 境内に石体二基出現せるを報ず 宇佐神宮史巻3-312,岩清水文書,宮寺縁事抄,百錬抄
天承2年 1132 大宰・藤原経忠 正八幡宮に石体二基出現せるを報ず 宇佐神宮史巻3-312,岩清水文書,宮寺縁事抄,百錬抄
康治元年1142台明寺へ水田寄進 僧侶行賢
(惟宗「島津藩主初代:忠久」の子
正八幡宮執印)
台明寺文書p9
康治5年 1144 八幡炎上 久安2年(1146)平清盛、安芸守となる 社伝
治承2年 1178 藤原朝臣成経参詣 前年硫黄島に流刑後帰京途中 平家物語巻五
流刑は「足摺」
寿永2年9月11日 1183 平家一族、安徳天皇を奉じ西下す 前年、平清盛死す、垂水・居世神社伝承 宇佐神宮史巻3-580
建久3年9月 1192 禰寝院南俣地頭重信の佛神事并に領家年貢物を封棹するにより
地頭職を停止せられんことを請ふ
正八幡宮神官等 宇佐神宮史4-246
建久7年12月15 1196 散在の荘園五箇所別宮を同宮弥勒寺に付す 宇佐宮弥勒寺寺務成清の秦状により 宇佐神宮史4-310
建久8年6月1197図田帳を注進す豊前・豊後・日向・大隅・薩摩宇佐神宮史4-316
建久8年1197大隅正八幡社領
荒田八幡
栗野郷若宮八幡
恒吉邑投谷八幡
加治木段土
日向・大隅・薩摩図田帳三国名勝図会3-36
正治元年9月51199正八幡宮を造営せしむ日向・大隅・薩摩三箇國の荘公田を支配して宇佐神宮史4-429
正治元年11月191199正殿造営の入柚・木作始日時を宣下す宇佐神宮史4-432
正治2年12月201200正八幡宮府行事官糧米等を勤仕せしむ同國の諸郡院荘をして宇佐神宮史4-444
建仁元年8月1201 修理所為宗の濫妨を陳じ申す、介藤原某、安堵の外題を興ふ 貫首酒井道吉宇佐神宮史4-520
隈元文書
建仁2年2月191202府行事官糧米等を返済せしむ薩摩國留守所宇佐神宮史4-468
建仁3年10月 1203 沙弥行西を同國禰寝南俣郡司地頭職に補す 正八幡宮公文所 宇佐神宮史4-487
元久元三月) 1204 修理所検校爲宗の坊を停止し
貫首酒井道吉に
同國溝部村内田畠等安堵す
正八幡宮公文所 図会3-33
吾妻鑑3-281
宇佐神宮史4-494
建仁4年10月17日(元久元年) 1204 帖佐、荒田、萬徳の地頭職を止 正八幡宮公文所 図会3-33
吾妻鑑3-281
宇佐神宮史4-487
元久元年
十月小十七日丙午
1204 大隅國正八幡宮寺訴申事 被經沙汰。是故右幕下御時。 掃部頭入道寂忍爲正宮地頭之處。
宮寺依申子細。被停止其儀訖。 其後。又三ケ所被補三人地頭之間。
造宮之功難成之由云々。 仍今日。所止彼地頭職等也。
帖作郷地頭肥後坊良西。 荒田庄地頭山北六郎種頼。 万得名地頭馬部入道淨賢云々。
廣元朝臣奉行之。
吾妻鑑18
古事類苑( 地部・肥後國)
元久2年1205大隅國正宮貫主酒井道吉の訴へによる
神領溝部本村等の為宗の妨を停止せしむ
宇佐宮弥勒寺公文所宇佐神宮史4-522
元久2年10月1205正宮公文所をして、同宮宮侍職を補任せしむ宇佐宮弥勒寺公文所宇佐神宮史4-522
建永元年1206岩清水八幡修理別當法眼秀清をして
弥勒寺、喜多院、正八幡宮検校職を相傳せしむ
太政官、師祐清の譲に任せ宇佐神宮史4-500
建永2年 1207 大隅國正八幡宮公文所をして
菱刈重能の妨を停止し
清重法師に
神領禰寝南俣院地頭職を安堵せしむ
宇佐宮弥勒寺公文所 宇佐神宮史4-504
承元2年1208 荘公平均に、大隅國正八幡宮神賓装束等を支配せしむ 官旨を大宰府に下し
宇佐宮の例に任せ
宇佐神宮史4-507
壬生家文書29
承久3年5月111221同神領西郷溝部村等の為宗の妨を停止し、同宮貫首酒井道吉に領知せしむ弥勒寺本家公文所宇佐神宮史4-468
仁治2年 1241 正八幡宮放生会陣頭役等を勤めしむ 大隅守護 北條朝時、同國禰寝院百姓等をして 郡司清綱の催促に従ひ 宇佐神宮史5-339
禰寝文書339
建長5年 1253 炎上 建長五年3月十五日
正八幡宮御炎上有
三十二年間仮殿被建置也
夫ヨリ又三十二年暦
弘安五年四月二十一日
御炎上有
桑幡家文書p180
百錬抄
宇佐神宮史5-452
建長5年1253大隅・薩摩・日向の荘公田平均に支配す正八幡宮所司神官等宇佐神宮史5-454
建長5年 1253 当宮焼失の殿舎造営裁可さる 宇佐神宮史5-456
建長7年1255社殿造営す大隅・薩摩・日向の荘公田平均に支配宇佐神宮史5-479
文永9年1272正八幡宮講経免事関東裁許状台明寺文書(p26)
建治2年1276一偏上人参拝時宗開祖・時宗の聖地となり隆盛を
嶋津藩主1-5代は号を
一偏上人絵詞
建治3年1277 元寇対応
国土安寧祈願
石清水八幡宮より 鹿児島神宮史51
弘安5年 1282 炎上 建長五年3月十五日
正八幡宮御炎上有
三十二年間仮殿被建置也
夫ヨリ又三十二年暦
弘安五年四月二十一日
御炎上有
桑幡家文書p180
百錬抄
宇佐神宮史5-452
弘安7年1284幕府寄進す異国降伏祈願のため、豊前國上毛郡勤原村地頭職を寄進宇佐神宮史6-92
正八幡宮・島津文書
隼人町郷土誌102
(福山町郷土誌186)
正應元年1288訴状嶋津荘荘官等、立荘以来260余年、造営を勤仕せざることを訴ふ宇佐神宮史6-215
正應三年1290幕府寄進す異国降伏祈願のため
筑後国みぬま庄
隼人町郷土誌103
(福山町郷土誌186)
嘉元2年1304正八幡神輿の上洛を止めしむ豊後国守護代、同國地頭御家人をして、門司に於て宇佐神宮史6-421
正和6年1317正八幡宮修理少弐盛経施行状台明寺文書(p30)
元亨3年1323正八幡宮の経田台明寺料田相博状台明寺文書(p33)
正中3年1326正八幡神面破壊の行為守護赤橋秀時が日向国守護所宛文台明寺文書(p33)
元弘31333報償:蒙古襲来後の浮田荘臼杵郡田貫田
宮崎県日之影町 岩井川神社?
日向国図田帳
正平4年2/18
(貞和5年)
1349炎上南北朝動乱桑幡家文書p181
図会3-33
永和2
(応安9)
1375浜下之神事
騎馬260
総大宮司北村河内覚桑幡家文書p181
図会3-35
応永14年1407造営桑幡家文書p181
図会3-33
文安4年1447炎上桑幡家文書p181
図会3-34
長禄元年1457社殿造営島津忠国桑幡家文書p181
文亀4年1504島津忠昌参詣島津忠昌社参隋兵人数書
大永7年1527本田薫親勢が焼き討ち島津vs本田、正興寺も類焼す
四社家も抗戦
桑幡家は串間に逃れる
薫親は伊東氏に通じていた(庄内平治記)北郷忠相を頼り出奔す
三国名勝図会3-34
台明寺文書(p34)
調所恒房伝
庄内平治記
享禄3年1530/3/7柱建島津貴久,日秀上人社伝
享禄3年1530/6/29遷座島津貴久,日秀上人,初午祭始まる社伝
天文二十年1551御尊体奉発注島津貴久(大中公)
日秀上人
図会B34・止上神社文書p72
永禄2年1559遷宮島津貴久図会B34・社伝
永禄3年1560御尊体奉安島津貴久図会B34
止上神社文書p72
天正4年1576日州打入戦勝祈願島津義久上井覚兼下65
天正13年1585参詣島津義久上井覚兼下66
天正13年1585豊後動乱戦勝祈願島津義久上井覚兼下64
元和4年1618蒲生八幡に正八幡若宮の額を掲げる
(勧請社として認知)
島津義弘三国名勝図会3-663
延宝3年9月27日1675橘 三善 参拝 22日霧島の社参詣,東光坊泊
24日高千穂の峯,花林寺泊
25日韓国岳
27日宮内泊、28日八幡留
29日濱之市,加治木泊
諸国一宮参 記
宝暦6年1756造営島津重豪社伝
天明葵3年1783橘 南谿 参拝加治木〜小浜〜濱之市〜宮内・八幡〜大津川〜明王寺西遊記
寛政4年5月27日1792高山彦九郎 参拝加治木〜野久美田〜宮内〜大津川
〜宮内〜蛭子〜大津川〜風杜〜気色杜〜国分
筑紫日記
享和3年1803鳥居新御造替古記p388
明治4年1871国幣中社神社帳
明治7年1874鹿児島神宮
官幣中社
神社帳
明治28年1895官幣大社神社帳
平成12年2000浜下り復活昭和9年、65年振り


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見頃は12/15前後(駐車場)

 
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  1. 建長5年(1253): *宇佐の別宮とあるのは「岩清水の九州五所八幡宮」を指す ==>>榊葉集、神書しょう
    • 大隅国・正八幡宮
    • 肥前国・千栗宮(佐賀県三養基郡みやき町)
    • 肥後国・藤崎宮(熊本市)
    • 筑前国・大分宮(福岡・筑穂町)
    • 薩摩国・新田宮(鹿児島・さつま川内市)
  2. 山城国男山に岩清水八幡宮の鎮座は、貞観元年(859)である。
  3. 鎌倉初期からは、「岩清水」の勢力下、それ以前は「宇佐」

    皇室御参拝

  4. 昭和47年9月13日:皇太子殿下・妃殿下
  5. 昭和59年5月21日:天皇陛下


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概要


第一鳥居(正八幡鳥居:独自型)

三之社と第二鳥居(神明型)
左(南):火照尊・大隅命

三之社北側

三之社南側(火照尊・大隅命)

第二鳥居から御神橋

御門社

第二坂

雨之社と第二坂

境内

境内社(左から:四所・武内・隼風)

四所

武内

隼風(はやち)

本殿(中央)右は四所

拝殿と本殿

桜満開の参道

勅使殿

桜満開の境内と勅使殿

桜満開の参道

おみくじ

銀杏

銀杏

社殿配置

境内配置

鹿児島神社

石体宮・弥勒院


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考察

 
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ご神体について

  1. 日子穂穂手見尊(彦火火出見尊:山幸彦)がご神体の山岳修行の霊山
    • 屋久島:宮の浦岳
    • 熊本県球磨郡水上村:市房山
  2. なぜこの山岳なのか今後の調査が愉しみではある。
御霊と陵墓
  1. 各所の神社のご祭神は主に「御霊」を祭るが陵墓はどこなのだろううか。
  2. 隼人の始祖と伝承される火照命(ホオリノミコト)だが、 陵墓も妃も不明、果たして??
  3. 火照命(ホオリノミコト)を祭祀する神社には次がある。   潮嶽神社:宮崎県南那珂郡北郷町北河内宿野   鑰島神社:霧島市隼人町浜の市   止上神社:霧島市国分重久
  4. 現在の鹿児島神宮では、こんな場所に「門守」として祭祀されていた。  三之社:第二鳥居前  

三之社と第二鳥居(神明型)
左(南):火照尊・大隅命

三之社南側(火照尊・大隅命)


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  1. 鹿児島神宮史(p29)によると、 分社は、鹿児島神宮を核として東西南北を守護する。 鹿児島市の荒田八幡、栗野の正若宮八幡宮、 恒吉町の投谷八幡、垂水市田上鹿児島大明神社 とある。 ■保安2年(1121) 禰寝院南俣村(根占)を同宮御馬所検頼清に 貫首親助,大宰府領物負物等の代として 宇佐神宮史巻3-264  大隅国正八幡宮政所下文  に見えることからして  禰寝院は、この頃、正八幡宮の社領地に組み込まれたようだ。   ■建久8年(1197):大隅国図田帳 正宮領本家八幡  地頭掃部頭    田千二百九十六町三段小  応輸七百九十五町八段    応輸:納税する田畑    宮領は、大隅国の総田数の半分を占める   正宮領    曽野郡、小河院、桑東、桑西、帖佐、蒲生院  吉田院、加治木郷、祢寝(根占)、栗野院、鹿屋院  姶良庄   ■長久年間(1040-44) 姶良荘園 ■11世紀  栗野院、蒲生院、荒田荘   ■12世紀  大隅国内に島津荘 ■建久7年12月15(1196)====>>宇佐・弥勒院領地となる    宇佐宮弥勒寺寺務成清の秦状により 散在の荘園五箇所別宮を同宮弥勒寺に付す   ===>>宇佐神宮史4-310 ■建久7年12月25(1196)  惟宗定成 豊前介に任ず ===>>宇佐神宮史4-311、三長記 ■仁治2年(1241 )  正八幡宮放生会陣頭役等を勤めしむ  大隅守護 北條朝時、  同國禰寝院百姓等をして郡司清綱の催促に従ひ  宇佐神宮史5-339  禰寝文書  
  2. 蒙古襲来後の恩賞としての地頭職・浮田荘
       
    • ■弘安7年 1284 幕府寄進す 異国降伏祈願のため、 豊前國上毛郡勤原村地頭職を寄進 宇佐神宮史6-92 正八幡宮・島津文書 隼人町郷土誌102 (福山町郷土誌186)
    • ■正應三年 1290 幕府寄進す 異国降伏祈願のため 筑後国みぬま庄 隼人町郷土誌103 (福山町郷土誌186)
    • ■元弘3(1333)頃 幕府寄進す 臼杵郡田貫田:蒙古襲来後の浮田荘 日向国図田帳
  3. ■暦応2年(1339) 大隅国正八幡宮講衆・殿上等訴状写    藤原忠実から帖佐郷を寄進、  この頃、帖佐八幡や蒲生八幡も 正八幡宮の社領地に組み込まれた  
  4. 建久8年(1197)の「大隅国図田帳」だが ■建久8年(1197):大隅国図田帳 正宮領本家八幡  地頭掃部頭    田千二百九十六町三段小  応輸七百九十五町八段    応輸:納税する田畑    宮領は、大隅国の総田数の半分を占める   正宮領    曽野郡、小河院、桑東、桑西、帖佐、蒲生院  吉田院、加治木郷、禰寝(根占)、栗野院、鹿屋院  姶良庄 禰寝の社領地配分:建久図田帳               
    No摘要禰寝北俣禰寝南俣
    1呼称大禰寝小禰寝
    2領地分担大根占町
    鹿屋市南部
    根占町
    田代町
    佐多町
    3持分島津大隅正八幡
    (岩清水)
    4建久図田帳40町5段40町
      ☆禰寝氏の平家伝承から衰退迄の史資料   「禰寝文書」:鹿児島県史資料・旧雑記録家分け1   今後の展開が     ========================    正宮領本家八幡と記載がある。    当時の岩清水八幡宮の勢力下に組み込まれた  大隅正八幡宮だが、本家八幡として  認知されているのは、氏子としては喜ばしいことだ。 ===>>本家八幡は「石清水八幡宮」と見ていたのだが....  
  5. 鹿児島神宮史によると 四所別宮に次が列記されている。 姶良八幡・荒田八幡・栗野八幡・蒲生八幡
  6. この範囲からしても当時、正八幡は広大な社領地を 有していたことが何える。
  7. 元和4年 1618 蒲生八幡に正八幡若宮の額を掲げる (勧請社として認知) 島津義弘 三国名勝図会3-663
  8. 勢力を伸ばしつつあった武家集団が競って寄進していたようだ。
  9. また、隼人の末裔「弥五郎」に由来する祭りが 次で盛大に開催される。
  10. 昔の鹿児島神社はこの辺りまでも社領地としていたのだろうか。
    確かに指宿開聞神社も一時期包括していたようだから かなりの勢力だったことは伺える。


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縄文期の宮内貝塚

  1. 古代からこの神宮辺りに居住していた痕跡が近年再度発見された。
  2. この縄文時代の貝塚は、境内からも、かなり以前発掘されている。
  3. 神宮西側の参道口の遺跡は、貝殻層の断片を垣間覩ることができる。
地層No地層色地層含有物:遺物貝層摘要
1黒褐色土表土層
2黒褐色土軽石・襟層土器・瓦等第6号貝ブロック古代・近世
3黄色味で、可塑性の強い暗褐色土アカホヤ層貝・骨第1号貝ブロック
4黒味のある極暗褐色土軽石層骨片・土器第2〜5号貝ブロック
5黒褐色土礫層炭化物・骨片第1号貝ブロック
6黄褐色土砂質層土器・骨片第3〜5号貝ブロック
7褐色土砂質層貝・土器・黒曜石(2)第1・2・3号貝ブロック貝層が食い込む
8可塑性の強い晴褐色土やや多めの轢や軽石ハマグリ、マガキ他、土器第3〜5号貝ブロック
9暗褐色轢や軽石
10褐色轢や軽石

■貝類:
 ハマグリ、カキ、ハイガイ、マガキ、ヒメアカガイ、アカニシ等

■遺物:
 縄文早期の土器約200点
 土師器、陶磁器(中国製青磁、国内産陶器)
 瓦
 石器:縄文時代の黒曜石、石ぞく
 鹿の骨、鳥類の骨
 鹿角製品
 
 
 
 
 
 
 


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○当地の鹿児島神宮史には次のようなくだりがある。(p26)


「継体天皇の御世、
中国の陳大王の娘
大比留女(おおひるめ)が
七歳にして
朝日を受けて懐妊し、
生まれた子と共に
空船(うつろふね)
に乗せられて流され、
大隅八幡崎に着いた。

生子は
ここで正八幡となって
隼人を討ち、
生母は筑前香椎(かしい)
に飛んで
聖母(しょうも)大菩薩
となった」



====== 鹿児島神宮史 p26 ====

これは岩清水の僧侶が説法したものと言われている。 この説法の真偽はともかくとして、 「八幡神」の「異国神説」と 先ず「大隅八幡崎」に降臨したとあるのは興味深い。 この出自はここか。

☆八幡愚童訓☆

震旦國陳之大王之娘
大比留女之七歳眩朝日ノ光胸ノ間ニ
指入ヲ御懐妊有テ
皇子ヲ生給シ王臣是ヲ怖テ
空舟ニ奉乗テ流シ着タラン所ヲ
所領トシ給ヘトテ
大海ニ奉浮ニ日本國鎮西大隅ノ磯之岸ニ
着船フ
其太子ヲ八幡ト奉號シヨリ
御舟ノ着タル所ヲ八幡崎ト名付タル
是ハ継体天皇之御宇也
又大比留女筑前國若杉山ヘ飛入給テ後ハ
香椎聖母大菩薩ト現給ヘリ
皇ハ大隅之國に留テ
正八幡ト現シ給ヘリ

・・・・・・・・


==== 八幡大菩薩愚童訓 上p24 ====

この大比留女(おおひるめ)だが 記紀では三貴子の後に 誕生する神だが謎が多い。 伊弉諾尊・伊弉冊尊 の二神が 筑紫日向小戸橘之檍原 で禊をし 神々の生誕となる。


1:八十枉津日神
2:神直日神
3:大直日神
4:底津少童命 (阿曇連等所祭神)
5:底筒男命   (住吉大神) 
6:中津少童命 (阿曇連等所祭神)
7:中筒男命 	(住吉大神) 
8:表津少童命 (阿曇連等所祭神)
9:表筒男命   (住吉大神) 

☆☆☆ 三貴子 ☆☆☆
*1:天照大神
*2:月讀尊
*3:素戔鳴尊


この後に 素戔鳴尊が昇天し 神楽で有名な 天照大神の天の岩戸開き へと展開するのだが ・・・・・・ 伊弉諾尊 が 三貴子の誕生に 喜んで 右手に 白銅鏡(ますみのかがみ) を持って生まれたのが 大日霊貴尊 (おおひるめ) であると 日本書紀は語る。 又、 左手に持った時 生まれた神が 月弓尊 である

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==== 日本書紀 =====


▲01第五段一書第一◆一書曰。

伊弉諾尊曰。吾欲生御■之珍子。

乃以左手持白銅鏡。==>>大日霊貴尊
則有化出之神。
是謂
大日■尊。

右手持白銅鏡。
則有化出之神。
是謂
月弓尊。

又廻首顧眄之間。
則有化神。
是謂
素戔鳴尊。

即大日■尊及月弓尊並。
是質性明麗。故使照臨天地。

素戔鳴尊是性好殘害。
故令下治根國。』珍。此云于圖。
顧眄之間。此云美屡摩沙可利爾。


大日霊貴尊 は 明麗な性格 であった。 平田 篤胤「古史成文」 一の二十六項 では 「天照大神」 としているが。。


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  1. 「八幡神」とは一体何? ○「八幡神」をなぜこの地に降旗したのか? ○正八幡宮と宇佐八幡宮の違いは。。 ○両方共「渡来の神」 ○両方共「磐座信仰」がある。 ○秦氏の氏神と云われているが、 「秦氏」は何者
  2. 古代からの拠り所だったこの地に「隼人族」の社があったのか
  3. 旧地名は「桑」を冠する字が多い。 和名類聚抄に表記されている地名:桑原郡 大原(オオハラ): 大分(オオイタ); 豊國(トヨクニ); 答西(イヤ): 稲積(イナズミ): 広田(ヒロタ): 桑善: 仲川(ナカカワ)國用中津川三字:====>>牧園町中津川
  4. また「桑」や「秦」「幡」苗字も多い。
  5. 当地はカルデラ台地の畑作で、 古来より「養蚕」や「煙草」の産地である。 「養蚕」:日当山村 昭和8年度は285戸3094枚
  6. 天降川(旧大津川)の上流、霧島川の下流域 旧夕暮れの関辺りには、 良質の砂鉄があって刀鍛冶屋が軒を連ねていたそうだが。
  7. それとも山ヶ野(横川)からの流失砂金でも採れたのだろうか・ 鉱脈の発見は江戸時代初期(1640)ではあるが 一応明治初期の鉱山リストを。 金 日置郡串木野郷羽島村 伊佐郡牛山郷牛尾村 臼杵郡鞍岡村 川辺郡南方郷鹿籠村 日置郡串木野郷斥ヶ野 桑原郡横川郷山ヶ野 砂金 伊佐郡佐志郷佐志川筋 銀 大隅郡牛根郷 肝属郡新城郷 臼杵郡岩戸村土呂久 臼杵郡内処々 日置郡串木野郷斥ヶ野 錫 諸県郡石川村内 大隅郡牛根郷 臼杵郡内処々 銅 川辺郡加世田郷片浦村 曾於郡国分郷河内村 大隅郡牛根郷中名村 臼杵郡七折村槙峯 臼杵郡北方村日平
  8. 温泉の硫黄や水銀は、昔はお化粧の材料 伊勢白粉おしろいに なっていたと云うからその採取積み出しの地か?
  9. 「八幡神」の宇佐との抗争の歴史的背景は何か?
    • 当時の宇佐神宮では「秦氏」系は主要ポストの 禰宜を司っていなかった。
    • 天平勝宝六年(754): 宇佐神宮の大神朝臣杜女が日向へ配流されている。 この場所はどこだろうか。
    • 抗争に破れ当地の末裔を頼ってきたがそこに追っ手が。。 推測の域を出ないが。 今後史資料を精査すれば見えてくるだろう。
    • 数度の抗争(八幡本家争い)や焼失もきな臭さが 漂うのだが。
      
      天平勝宝六年(754)十一月甲申《廿四》◆甲申。
      
        藥師寺僧行信。与八幡神宮主神大神朝臣多麻呂等。
        同意厭魅。下所司推勘。罪合遠流。於是。
        遣中納言多治比眞人廣足。就藥師寺宣詔。
        以行信配下野藥師寺。
      
      天平勝宝六年(754)十一月丁亥《廿七》◆丁亥。
      
        從四位下大神朝臣杜女。
        外從五位下大神朝臣多麻呂並除名從本姓。
        杜女配於日向國。多麻呂於多■嶋。
        因更擇他人。補神宮祢宜祝。
        其封戸位田。并雜物一事已上。令大宰検知焉。
      
      =======  続日本紀   ======
      
      
    • 大神朝臣杜女は、どうも高千穂へ配流されたよう。 この地には、それ以前に「大神(おおみわ)」が移住している。 多分、そこを頼ったのではなかろうか。 その後、仁和二年(886)には、大神朝臣良臣が下向している。
      
      仁和二年(八八六)正月十六日丙申
      
      外従五位下行
      左大史大神朝臣良臣為肥後介。
      
      
      ===== 三代実録巻四十九 ====
      
      大神系図
      
      始祖大神太夫惟基
      
      大和大三輪の一族
      豊後介大神良臣の孫
      
      惟基の嫡子 政次は
      高知尾太郎と呼ばれる
      
      日向の三田井に入植する
      
      
      ==== 大神系図(都甲家蔵) ====
      
      
      
      
  10. 弘安7年(1284): 幕府寄進す 異国降伏祈願のため、 豊前國上毛郡勤原村地頭職を寄進 (宇佐神宮史6-92 ) 元寇が大船団で2度日本に奇襲を駆けたが、 台風の影響で難破し四散した。 『神風』が吹き日本は救われたとする思想が根底にあり 「八幡神」への信奉が高揚し「宇佐八幡宮」は 隆盛を極めることとなる。 当地の八幡宮もこの「報償」を賜っている。 2006/5現在: 福岡県東部の築上郡上毛町(こうげまち)は、 旧上毛郡から命名したとある。 ☆付記: ○豊前國上毛郡勤原村地頭職○ ===>>神宮の四社家の一つ、留守家の赴任地
  11. 鹿児島神宮史(p27)には、 「承徳元年(1097)に新宮遷座されている」とある、 しかし、三国名勝図会には「正宮は和銅元年建立」とあるのだが。 新宮として遷座建立したのであれば、 宇佐神宮史にも散見されるはずだが。 見出せなかった。 但し、神宮史のp15「調所文書」を引用すると。 建治2年(1276)8月に、 石体藤太郎なる者が見えて居るのを思えば 石体宮は既に正宮の摂末社の一つであって。。 いずれにせよ今一つ理解しがたいのだが。
  12. 神宮史には神体山として後方の御壇山をあげているが 遷宮当初は、南方に泰然と控える「桜島山」だったのでは。 鹿児島神宮境内からの桜島 ☆境内からの桜島 天承2年(1132):宇佐神宮史巻3-312,宮寺縁事抄,百錬抄 大隅國正八幡宮境内に石体二基出現せるを報ず の後、この出現した場所(御壇山)を ご神体にしたとも考えられる。
  13. 大分市永興(りょうご)に勧請された「正八幡宮」
    • 境内の由緒によると永興(りょうご)村の村社とあるが 旧荏隈村に当たるので、旧社名は「若宮八幡神社」か? 大分に確認の必要がある。
    • また、由緒書きには「弐十年毎に遷座」とある。 この城跡に遷座したのは何時頃だろうか。
    • 対面した反対側には「城南神社」が鎮座する。
    • 創建の天平二十年(748)というと、 宇佐の「八幡神」が東大寺地主神に勧請された歳だが、 関係ありか または、「放生会」との繋がりか。
    • この「永興」だが、中国の湖南省にある。 「古来の正八幡」は、この渡来族の「祖霊社」だったのかもしれない。 伝承の「先ず大隅崎に降臨し、、、」の意味が見えてくる。
    • 又翌年には 天平勝宝元年(749)八月壬午《廿一》◆壬午。 大隅。薩摩兩國隼人等貢御調。并奏土風歌舞。 とあるが。
    • あるいは天平二十一年(749) 陸奥守百済敬福、黄金九百両を進す、 依って百二十両を八幡神宮に奉る。 とあるのだが。。
    • 平凡社「地名辞典:大分県」大分市 によると。 豊後守護大友頼泰は、幕府内での対立から 逃げるためにもあって管内豊後国に下向するが その時大隅国正八幡宮大神宝用途調進を 管國を越えて指揮する特殊権限を与えられた 文永2年12月26日(1265):関東御教書案
    • 尚、島津家久が豊後に侵入したのは天正14年11月(1586)
  14. 宇佐八幡と正八幡の記紀等の初見は? ===>>続日本紀 ○宇佐八幡○ 天平九年(737) 四月乙巳朔◆夏四月乙已朔。 遣使於伊勢神宮。大神社。 筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。 奉幣以告新羅无禮之状。 ○正八幡○ 宝亀9年(778) 去神護中。 大隅國海中有神造嶋。 其名曰大穴持神。至是爲官社。
  15. ○建仁3年10月 1203 沙弥行西を同國禰寝南俣郡司地頭職に補す 正八幡宮公文所 宇佐神宮史4-487
    • 沙弥行西とはどんな人物? 是に登場する方?
      
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      貞永元年(1232)七月小十日己丑。
      霽。爲表政道無私。被召評定衆連署起請文。
      其衆爲十一人。
      
       攝津守中原師員   前駿河守平義村
       沙弥行西〔隱岐守〕 前出羽守藤原家長
       加賀守三善康俊   沙弥行然〔民部大夫〕
       左衛門少尉藤原基綱 大和守三善倫重
       玄番允同康連    相摸大掾藤原業時
       沙弥淨圓〔左兵衛尉〕
      相州。武州爲理非决断職。猶令加署判於此起請給云々。
      
      
      
      
      ====== 吾妻鑑第廿八巻 =======
      
      
      
    • 貞永1(1232):御成敗式目 執権北条泰時の鎌倉幕府法にも連署がある。
    • 禰寝氏文書の系図によると清重が元祖とある。 清重は「沙弥行西」とある。
    • 福岡久留米の沙弥行西の祖は不明とか? また、熊本県の九州山地にも同名が見える。 北九州の旧せぶり地方は、 旧大隅正八幡宮の社領地だった 時代がある(蒙古退治の恩賞として) あるいは、、、 今後の展開が。。。


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  • 正平4年2/18(1349) 八幡宮が炎上しているが、これは南北朝動乱によるもの。 ■南朝  ○島津氏久   平山、加治木、池袋、木房、小田、別府、鎌田   菱刈、牧、栗野郡司   等      姫木彌四郎は軍功を揚げる。    ■北朝  ○畠山直顕   税所、加治木彦一郎、禰寝氏   修理所彌太郎、姫木郡司   羽月孫太郎、小川郡司、蒲生彦太郎、   小渓十郎、敷根預所、廻村預所、   末次六郎入道、正八幡宮所司分   等    **大隅は圧倒的に「北朝側」であった。
    
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    文和の頃
    兵衛左直冬の味方ニ属する人々
    大隅國よりの衆ニ左之通
    
    大隅國佐殿御方凶徒等交名注文
    
    税所介一族
    加治木彦二郎一族
    祢寝郡司一族
    姫城郡司一族
    蒲生彦太郎一族
    修理所五郎 弥太郎一族
    羽月孫太郎
    羽坂孫太郎一族
    小川郡司一族
    小濱十郎一族
    肝付八郎一族
    末次六郎入道輩跡同一族
    溝邊孫七盛忠輩跡一族
    
    
    正八幡先社務
    平山因幡前司入道一族
    
    弥勒寺執当
    白房道慶同舎弟九郎左衛門
    同舎弟十郎三郎
    
    敷根村預所
    廻村預所
    
    正八幡宮神官所司分杉五郎
    
    東郷藤左衛門入道同荒瀬九郎
    吉田左近蔵人
    
    清忠但清忠 参御方 云々
    
    右注進如件
    
    尊氏御判
    
    
    
    ====== 国分諸古記 140=====
    
    
    
    1. この書状がいつの頃なのか 年代の記載が無いのが少々気にかかるが。。 文和の頃とは、北朝年号で西暦1352-5
    2. 兵衛左直冬は、足利尊氏の長男。 一時期、九州探題 後反目し、抗戦状態となる これが 観応の擾乱(じょうらん) 貞和5年(1349)〜文和元年(1352) で九州の武家方が 将軍足利尊氏方佐殿同直冬方に 分裂する.
    3. この書状から判るように 大隅半島の多数の在地豪族が 直冬の味方に 与している。
    4. 廻村預所 とあるのは、廻氏のことで この頃には、この當村を拠点として 足利直冬ー日向守護畠山直顕の与党として 島津氏久の勢力に対抗している (氏久公御譜:旧記雑録)
    5. また、島津貞久足利尊氏と行動を与し、 一時期、南朝方に与してもいるからだ。。 複雑怪奇な時代だ。

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    一遍 大隅正八幡影向図 == 一遍上人聖絵 ==
    1. 島津藩が、この時宗を加護し 初代島津忠久〜5代貞久まで時宗の法号を取っている。
    2. 建治2年(1276)、その時宗の開祖一偏上人が 参拝されたと一偏上人絵詞にある。
    3. これにより、時の大隈正八幡宮は「時宗の聖地」 として脚光を浴びることとなる。
    4. 一遍上人は、道後の人で四国と云えば弘法大師、 石鎚山は修験道のメッカだ。 「熊野権現」を崇拝されたのも頷ける。 当地に「権現」が散見されるのはその影響だろうか。
    5. 清浄光寺蔵 「大隅正八幡影向図」によると 一遍が具現した八幡神から神託を授かっている。 また、「一遍聖絵」巻4では歌を直授されている。 「とことはに 南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ」
    6. この大隅八幡参詣には、遊行上人2世他阿弥陀仏真教は、 同行していない。
    7. 一遍上人は、霧島権現信仰の性空上人を敬愛し 弘安10年(1287)に教信寺を経て書写山に参詣した。 「諸国遊行の思い出 ただ 当山巡礼にあり」 と感激している。
    8. また、和泉式部と一遍上人との伝承もある。
    一遍 書写山参詣 == 一遍上人聖絵 ==


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    ☆正八幡の神主の「四社家」として
    次が家系として存続している。
    これは全国的にも珍しいとのこと。
    
    
    No社家名系統摘要職能所在地備考
    1桑幡火照命香春神社下向正宮の神主宮内屋敷・建久図田帳・桑畑家文書
    2留守紀親宗貞治2(1363)岩清水・善法寺より下向執印留守宮内桑幡文書202,213
    屋敷跡
    3最勝寺九条右相丞師輔鷹徳二年(1085)下向
    藤原(税所)篤如
    別当宮内桑幡文書202
    屋敷跡
    4嵯峨天皇承和9(842)下向田所宮内歴代の墓地群
    北山神社(氏神)
    桑幡文書202,212
    ■鹿児島神宮p66、 隼人町郷土史,福山町郷土史 ===>>八幡に関しては、福山町郷土史が整理され判りやすい   編者の三石先生(恩師)が、隼人の後に編纂された ■では、他の延喜式に登場する古社は  どうなのか。。  今ひとつ事由の展開が読めない  そこでちょっとリストアップしてみたが。
    No摘要当社岩清水宇佐八幡備考
    1 社家 桑幡
    留守
    最勝寺
    御豊(みとよ) 大神
    2 社家継承 桑幡
    留守
    最勝寺
    御豊(みとよ) 大神
    辛嶋(763-)
    宇佐
    3 神職継承 桑幡のみ 田中 兄の公成が宮成家
    弟の公連が到津家
    4 社家地の保存
    
    ■治安元年(1021)
    
     正五位下・藤原(税所)篤如・宮司職下向
     税所を氏とし曽於殿と呼称さる
      重久、最勝寺、姫木、芦江、川畑、馬場、妻屋川は同族 
      
    ■「社家」とは、広辞苑・他より引用
    
      ○世襲神職の家柄。社司家。社家衆。
      
      ○かんぬし、神職。
       社家神道(伊勢神道の別称)
       社家奉行(室町幕府の職名:神社からの訴状などを司どった)
    
    
    ■2010年:神宮の四社家については別掲載を参照のこと。
    
     
    

      


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    1. 神社の歴史でも判るように数度の焼失がある。 朝廷で協議している様子が次。
      
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      寛治六年二月十五日(1092)

      戌辰 有陣定 此去年十二月 大隅國正八幡宮賓殿焼亡之事也 ==== 中右記 1-113 ====
    2. 当然、遷座地が必要であるが 第一候補としては、 浜の市鎮座の鑰嶋神社 が挙げられる。
      
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      正八幡大永年間依御炎上、
      天文二十年九月日(1551)
      御尊体御下向
      桑幡末家三角道家使者也
      則八幡崎ニ着船
      蒲生八幡之御輿備
      鑰嶋宮ニテ奉移
      着御有テ
      日新公御社参
      御詠歌十一種
      
      
      
      ==== 桑幡家文書 p182 =====
      
      
      寛治六年十二月十三日(1092)
      正宮御炎上有
      同六年之5月御上洛有
      承徳元年迄六年ヲ暦而(しかして)(1097)
      御遷宮有
      九州四頭栄之
      
      == 桑幡家文書 p180==
      
      
      建長五年3月十五日(1253)
      正八幡宮御炎上有
      三十二年間仮殿被建置也
      夫ヨリ又三十二年暦
      弘安五年四月二十一日
      御炎上有
      
      == 桑幡家文書 p180==
      
      
    3. 寛治六年十二月十三日(1092)の火災だが 桑幡家文書には「寛治六年十二月十三日」 とあるが、 神宮史には、「寛治五年」とある。(p27)
    4. 伝承によると、 西光寺の旧大日神社にも遷座されていたらしい。 この神社は、大正時代、現在の飯富神社へ合祀 ===>>日當山村史
    桑幡家逃避について
     
    
    大永7年(1527)
        当地、国分の清水城城主・本田薫親は
        大隅正八幡(現鹿児島神宮)を攻めて火を放った。
        この抗戦に神主等も参戦したが敗北し
        桑幡氏は串間に逃避している。
           なぜこの地を頼ったのだろうか
        ちょっと探ってみた。
      
    
      
    
       
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     大永七年十一月
     
    清水城主本田紀伊守董親及志布志城主
    新納近江守忠勝等、合師來伐宮内神官等、
    神官留守・桑幡・崎田・最勝寺等皆據社壇八幡
    寶殿、構之兵備、号曰
    御壇、恒
    房亦自國衙趨偕以拒之、二十八日兵火罹社壇、社壇蕩燼、
    
    留守等潰走、桑幡乃奔于櫛間、崎田奔于山東、
    
    而恒房及最勝寺奔于麑府、寓居久矣、
    於是董親乃掠神領、自清水掌祀事者二十餘年、
    如守君神、亦渠族人本田
    刑部少輔親貞入道一恕自姫木領祀事云
    
    
    ==== 調所氏譜恒房傳 ====
    
    
    
    
    1. 串間神社由緒によると、 ■桓武天皇の頃平安京に祭祀 ■治歴4年(1068)    土佐国波多庄に移座   ■順徳院の頃  串間の福島に移され 土佐国波多庄から移座されたとある
    2. この移座と酷似した伝承が次にある。
      
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      ■元弘の乱(1331)
      
       

      後醍醐天皇の第一皇子尊良(たかよし)親王

          後醍醐天皇の皇子。   母は二条為世の女(むすめ)為子。   1331年(元徳3、元弘元)の元弘の変では   父とともに笠置山に拠ったが、   落城後に捕らえられ   土佐に配流された。   その後、九州に渡り、   1333年(正慶2、元弘3)   肥前国彼杵(そのき)郡の武士   江串(えぐし)氏に   擁され兵を挙げ、   幕府滅亡ののち京都に戻った。   1335年(建武2)   鎌倉で挙兵した足利尊氏追討に   新田義貞らとともに派遣されたが破れ   、京都に退却。   1336年(建武3、延元元)   義貞、恒良(つねよし)親王らと   越前国金崎城に拠ったが、   翌年、金崎城の戦で落城の際自害した。       ======== 日本歴史辞典 end ====
    3. 波多庄は幡多、幡に通じるから、桑幡とは姻戚関係か? 実は、島津も「秦系」(藤原)を名乗っているのだが。。
    4. 島津の初代忠久の母丹後の局は、近衛家の出と云われる。 近衛家は藤原氏であるから、島津はこの藤原姓を名乗っている。
    5. この近衛家は、平安の頃は、全国に50箇所余りの荘園を有する 日本最大の地主であったようだ。
    6. 波多庄は、この近衛家の領地であった また、串間の當もそのようである。 地頭職としての初任地の信濃国や南九州にしてもしかり。。
      
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      幡多(はた)の庄

      土佐国幡多(はた)郡のほぼ全域 と高岡郡の一部を占めた土佐最大の荘園。 現高知県幡多郡・中村市・宿毛(すくも)市 ・土佐清水市などにわたる。 一条家領。 13世紀初頭に土佐国は九条家の知行国となり, 九条道家の時代に幡多荘が成立したとみられるが 幡多郡 幡多荘領主 一條 氏, 幡多荘は、 もと国衙領として郡司がおかれ、藤原氏の支配下にあった。 平安末期は、藤原忠通・経宗の知行地だったが、 鎌倉初期に、九条家の荘園として成立 ====== 角川地名辞典 end ======
    7. 幡多荘は、もと国衙領として郡司がおかれ、 藤原氏の支配下にあった。 平安末期は、藤原忠通・経宗の知行地だったが、 鎌倉初期に、九条家の荘園として成立。
    8. 鎌倉初期、藤原は、九州の近衛荘を賜っているので 土佐から地行替えが行われたようだ。 その時ご祭神も幡多から串間へ遷座されたのだろうか。
    9. 串間には「藤原氏」と何らかの関連があったのだろう。 仔細はこれからの調査、、、また楽しみが増えた。
    
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    野神宅地

    実は、 当地の旧隼人町朝日集落には 後醍醐天皇の皇子 護良親王(もりなが) の伝承がある。 野神宅地には、 彼が入牢した 「大塔宮」(おおとうのみや)が あったと伝える。 当地に潜伏の兆しは不明。 あるいは、 「大塔宮」と呼ばれた同類の 牢屋が存在したのだろうか。 ===>>三国名勝図会 3-727 、太平記


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    四所若宮について

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    ■本地垂迹には 本地 応神天皇 釈迦如来 弥勒菩薩 仲哀天皇 阿弥陀如来 神功皇后 観音菩薩 ■若宮・若姫・宇礼・久礼について  両子寺所蔵  六郷開山仁聞大菩薩本記   「六郷山本紀廿八山本末之記」 「六郷山鎭守六所大権現本紀」  八幡御前生應神天皇ノ御后ノ竜女腹ノ四人ノ皇子、 皇女亦此所ニ神卜顕ハレ現シ玉フ 隼總別皇子・大葉枝皇子・小葉皇女・雌鳥皇女 四人之御靈也、  即現レ玉フ時ノ御名ヲ  若宮・若姫・宇礼・久礼卜申奉ル、  日向大隅ノ隼人等、  又異賊等養老ノ比襲来リシ時退治シ玉フ守護神也、  即四所大権現是レ也。  此ノ御神ノ内宇礼・久礼ノ二タ神ハ  両子大権現地以上四人、  応神帝ノ御子ハ都テ十九人也、  又竜女ノ腹ノ四人ノ皇子皇女御靈行、  養老ノ年ノ比宇佐二出現座シ、  御名ハ若宮・若姫・宇礼・久礼号シ奉ル、  日向ノ隼人等又襲来シ、  異族等退治ノ守護神也、今ノ四所權現是也。
    futagoji
    両子寺仁王像
    futagoji
    夕暮れで暗かったが
    この楼門の奥は桜満開だった


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    橘 三善「諸国一宮参詣 記 」

    ○延宝3年9月27日(1675)

    橘 三善 が参拝 している。 ===>>諸国一宮参詣 記
    • 22日霧島の社参詣,東光坊泊
    • 24日高千穂の峯,花林寺泊
    • 25日韓国岳
    • 27日宮内泊、28日八幡留
    • 29日濱之市,加治木泊
    
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    廿七日 西の在所を出
    大隈の宮内に留りぬ
    廿八日 御社へ詣けるに
    神主ノ云う
    
    此社は本地日の神なり
    神功皇后三韓に趣き給ひし時
    皇軍此神を祈り給ふに
    其しるし顕る
    後又神功応神をいはひそへ
    鹿児島神社とも
    正八幡宮とも申し伝ゆると聞て、
    
    武士の うくる恵みも
    おおすみの 八はたの宮と
    祝ひ初てき
    
    鹿児嶋神社、大隅國桑原郡
    人皇三十代欽明五年鎮座
    石躰宮、聖武天皇六年、天平元(巳巳)勧請
    以石納む土中に其前建宮也
    見碑文、時造之後四百四年
    崇徳天皇九年(丑子)
    始出哲人祭之、吉田一宮記云ふ
    又号す大隅宮、
    又号す正八幡宮なりと
    神功皇后也
    大隅宮三所
    大御前、大比留女、兼(すけ)右勘日、神功皇后
    南向、応神天皇。
    西向、竹内宿祢
    若宮南向、仁徳天皇、威云応神天皇
    
    大隅一の宮 桑原郡鷹島社図
    (イ二彦火々出尊)
    
    神主 正宮田所源永賢
    
    
    
    
    
    
    この頃は、 鎌倉初期からの 石清水八幡宮の影響が 垣間見られる。 ohsumimiya


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    郷土玩具

    鯛車

    鯛車
    鳩笛

    鳩笛
    ぽんぱち
    初鼓(はつずみ)継承者と父
    ぽんぱち
    初鼓(はつずみ)
    香箱
    香箱

     
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    1. 鯛車や香箱は「海幸彦・山幸彦」神話に肖った玩具です。
    2. 初鼓(はつずみ)は、地元では「ポンパチ」 もしくは「はずん」と呼びます。
    3. 春を呼ぶ「初午祭」で踊る馬に飾りとしても。
    4. この初午祭りを皮切りに当地の鎮守では、 「お田植え祭」が開催されます。


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