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神社一覧 南九州


祓戸神社



contents:

鎮座地/御祭神/神事・例祭/由緒/概要/

鎮座地

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■所在地:  霧島市国分・府中(元大隅国府跡付近)  北緯31度44分48秒,東経130度45分31秒 ■連絡先:  霧島市国分(0995-45-5111)   ■交通 :  ○林田バス:国分〜日当山〜霧島線、向花下車歩2分  ○JR日豊本線国分駅下車、歩5分


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御祭神

No 神社名 位置所在 名称 祭神 摘要 備考
2 祓戸(守公もりきみ)神社 本殿
瀧織津姫神 気吹主神 遠秋津姫神 速佐順良姫神 祓戸の4神と呼ばれる 古記では「祓戸之大神」p184
相殿
伊邪那美神 伊邪那岐神 古記p183
相殿
菅原道真 *天満天神社合祀 気色之杜合祀
往古は『蛭子神』
境内
地主神 龍神(水神) 山の神(田の神) 門守神 石碑・石像

**** 旧末社 ****

No 神社名 位置所在 摘要 備考
1 守公神 清水城内弟子丸 天御中主神社へ合祀 古記p118
2 宇都岩屋権現 姫城宇都(新七) 菅原天神神社へ合祀 古記p126
3 天神社 姫城槙尾(新七) 2010現:菅原天神神社 古記p126,p183
4 七社大明神 姫城迫石原 北永野田・七社神社へ合祀 古記p125
5 祇園天王精舎宮 祇園:府中村,精舎宮:向花村 八坂神社
2012現:国分市内へ遷座
古記p183,190
6 熊野権現 向花村 北山神社へ合祀 古記p183,190
7 若宮八幡宮 鳥越 若宮八幡神社
義久の頃遷座
古記p183


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由緒


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守君神社

地頭館より西方十三町 曽小川村、府中にあり 祭神 伊邪那岐・伊邪那美尊、 例祭二月卯日、九月弐拾九日、十一月中卯日 建立の年月日詳かならず その昔大中キ臣(おおなかとみ)姓、姫木氏 世世所祭の神なりし、 大隅一州の総社にて、 田禄若干石 社職数十戸ありて、 祭祀には、流鏑馬等を張行せしとぞ、 今其馬場を傳ふ 社司 谷口某 ====== 三国名勝図会 3-63 =====
pin.gif 守君神由緒
○古神領五拾五町相付候由申伝候近名神領ト申伝候  宇之地方千今多々御座候事 ○古守君神座主天神坊ト申寺御座候由申伝 ○古調所殿伊集院殿瀬戸口殿姫城殿ト申候テ守君ヲ奉  守護主取之礼御座候由申伝候 右筋目之由候テ垂水ヘ伊集院名字之人清水へ瀬戸口名字之人 干今居住之由承リ申候 其時代ハ判官殿代ト申社人五拾五人御座候由申伝候 右筋目之者府中中村百姓之内ニ少相残候 ○六月二十九日  御差越之御祭リニハ古鏑馬御座候  スカモチ御屋形ニ上り御門ニ掛リ候由申伝候  右スカモチ干今神前ニ相籠有之候事 ○高拾石曽祖父右京左衛門  慶長十九年ニ守君神社人職被  仰付為神領石馬被召付候社屋敷三ヶ所  相付有之候御修補等モ御公義被遊候  其以後御分国中諸寺社家知行被召上候  御守君神高モ上り申候当分ハ屋敷五畦相付候  但石知行目禄格護仕申候事 ○正八幡獅子従前代干今十月十六日守君神へ  御参詣被成候ニ付慶賀正月元旦参始候事  右守君神宮破損ニ付御修補之儀申上候処  由緒書出可申通被仰付老旨トモ申伝儀間届書付差上申候  可然様ニ奉頼候以上    国分守君社人      谷田治左衛門    午十一月五日   元禄九丙子三月 再興棟札略ス(1696) ==== 古記 p180 =====

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守君神社

伊邪那岐・伊邪那美尊  御子丸神奉勧請候

右守君神宮ハ大隅国惣社ト奉勧請置候
御尊五拾五丁 御祭廿六ヶ処御座候
由千今由緒御座候其時ハ社人五拾五人
右筋目之結旨蒔中村百姓内少シ相残居申候



==== 古記 p183 元文2年(1533)の寺社調べ=====

■和銅6年(713) 創建年代不詳 大隅国が薩摩国(日向国より分離成立は703年)  より分離され大隅国府がこの地に設立された頃、 鎮護として建立されたと伝う   ■弘安10年(1287)  ===>>守公神神役注文写    守公社浜殿借屋分役所の畳三帖 他を  蒲生久徳西俣 が負担していることが記載 弘安十年七月正宮末社守君神建立 ===>>桑幡家文書の留守系図 ■天文9年(1540)  ===>>古記の瀬戸口名についての記載)(p158) 國分府中村有守君神社社司 ■慶長19年(1614)  「守君神社」 見ゆ   ===>>古記182、寺社調 ■元禄9年(1696)  国分府内村 「守君神」見ゆ   ===>>古記p180、寺社調 ■明治4年6月(1871)  祓戸神社に改名   ===>>国分の古墳p86 ■明治5年:  村社:祓戸神社 =======守公神 として清水城に鎮座の頃========= ■永禄7年(1565)  義久造立棟札あり  ==>>古記p119   ■元和5年(1619)  家久再興棟札あり  ==>>古記119   ========== end ==========


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神事・例祭

例祭名概要摘要
33春祭(二月祭)お田植祭五穀豊饒祈願、べぶ旧2月、初午祭の次週の日曜午後〜
7中旬さのぼり(六月灯)悪疫退散、学問向上神が舞い降り田の神となる。やぶさめがあったそうだが
1123豊饒祭(秋祭)五穀豊饒感謝神楽、神舞があったそうだが
1220神祭(氏神祭)家内安全祈願自宅の氏神にそばを供える。


神事

牛で田興し
マンガ、モガ(田をかきまわす鍬の一種)

牛の砂かけ(泥はね)
田の泥にみたてた砂を見物人にかける

子牛も登場して見物人に砂かけ


拝殿で種籾やかやの実の争奪戦

しとぎ(米の粉を粘った物)を額に塗る
無病息災、豊作祈願

種籾やかやの実を見物人に配る

皆でぜんざいを食べて閉幕


  1. 拝殿で神事が終ると、 境内のゆにわで「牛の砂けけ」農耕神事を行う。
  2. 牛で田興し、マンガ、モガ (田をかきまわす鍬の一種)
  3. 主役の農夫と牛(べブ)は、 昔は成人男子だったが、近年、少数可し、 厄年男子が配役する。
  4. 境内の砂の盛土の施された「ゆにわ」で 周囲を廻りながら見物人に砂をかける。
  5. この砂かけは「田打」の時の牛の泥はねを 表現している。
  6. 農作業をいやがる牛が手綱を切、 境内狭しと暴れ見物人に砂をかけ、 皆右往左往逃げ回る。
  7. やがて、子牛も参入して見物人を追廻し クライマックスとなる。
  8. 牛が暴れ廻っていなくなると、 拝殿で神主のまく種籾、かやの実を厄年の五人による 争奪戦が展開される。(豊作を竸う様を表わす)
  9. 一段落すると、その種籾、かやの実を 見物人にふりわける。
  10. 神前の供物を下げ、「無病息災、豊作」を祈願し、 どろどろにした米の粉を見物人の額に塗る。
  11. 最後は、見物人にぜんざいやお酒がふるまわれる。
  12. 昔は神楽や太鼓踊りも奉納され、 露店が並びそれは賑やかだったそうだ。


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概要


鳥居(正八幡型)

拝殿

拝殿と本殿

本殿

境内の石碑

水神碑(蛇)
元禄五年壬申(1692)

山神碑

地神碑

門守(善神王)

門守(善神王)


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考察

  1. 島津藩制時代は、 「守君神社」として 総社としてまた、舞鶴城の鎮護としても加護された。
  2. 明治初年、気色の杜の天満天神社を合祀された。
  3. 古来、洪水や氾濫が多発しただけに ご祭神の「祓戸四神」を勧請したのは頷ける。 境内には龍神の水神石碑も鎮座。
  4. 春祭は俗にいう「お田植祭」で、 べぶ(牛)と農民が「苗代掻き」を演じた後、 数頭のべぶが登場して、見物人に神砂をかけ クライマックスとなる。
  5. 昔は、11月の豊饒祭では、神楽が奉納され、 神舞が夜を徹して舞われていたそうだが。
  6. 元国府跡の名残りの「宝塔」が、 近くの個人宅庭先にある。
  7. この辺りには、氏神や石敢当が多々散見される。
創建について
  1. 境内の由緒にも記載されているが この神社の創建年代は不詳なのだ。
  2. と云うのは、明治の頃の神社帳写には この神社が掲載されていないのだ。
  3. 替わりに清水城内に「守公神」が見える ===>>古記p118
  4. 島津藩の舞鶴城に「総社」として鎮座?
  5. 古記には、「気色の杜」に鎮座する 天満天神之社に遊行上人が参詣されている。(p183) この時、既にこの社が祓戸神社の末社で あったとすると、、それ以前に祓戸神社は 鎮座されていたことになる。 もしこの遊行上人が、創始者の一遍上人なら 大隅正八幡に参拝された後のことだろう。 そうすると、建治2年(1276)と云うことになる。
  6. ここに合祀された「気色の杜」の 天満天神社だが、どうも往時、洪水で社殿流失等の 時、由緒等も紛失したようだ。 その後、祭神を「天満天神」とした。 実際は、往古、「蛭子神」を祭祀したようだ。 ====>>三国名勝図会、国分の古墳p80
  7. また、往古の「気色の杜」だが 現在の第一工大の辺りにあった。 手籠川の数度の洪水で流失し現在地へ移転した。 (駅舎:中央からの伝達馬車の中継地)は この西100mにある。 ====>>三国名勝図会、古記
  8. また、「守公神」の末社リストは 古記を参照した。
  9. ■弘安10年(1287) ===>>守公神神役注文写 守公社浜殿借屋分役所の畳三帖 他を 蒲生久徳西俣 が負担していることが記載 この頃、既に、府中の現在地に鎮座されていたと見える
  10. 2011-9-25: 隼人町の歴史民俗資料館から借用した書籍 鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ十 桑幡家文書の留守系図を見ていたら 次のような記載があった。 弘安十年七月正宮末社守君神建立 とあった。 上記の「守公神神役注文写」と同年号ではないのか 他に記載のある古文書が出てくれば確証が掴めるが。。。
  11. 天文9年(1540)古記の瀬戸口名についての記載)(p158) 國分府中村有守君神社社司 ・・・・・ 当時、既に現在地辺りに鎮座されていたことが伺える
  12. 尚、この「守公神」についての論文は次がある。
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■著名:中世大隅国の守公神 : 国府との関連から ■著者:山田, 雄司 ■発行所:年報日本史叢, 1995: 89-100 ■参照:中世大隅国の守公神 ■著者ページ:山田雄司
ここでも、「守公神」に関しては、 「弘安十年」が初見のようだ。
ご祭神について
  1. 古記には、「伊邪那岐・伊邪那美尊」の二柱だが 現在では、 「瀧織津姫神 ・気吹主神 ・遠秋津姫神 ・速佐順良姫神 」 で、所謂「祓戸の4神」と呼ばれるご祭神が祭祀されている。
  2. 明治36年の「国分の古蹟」には、既にご祭神が見えるので 明治初年の神社名改称の時点で、ご祭神を加えたようだ。
  3. 本来、「守公社」は、中世の国府の守護として鬼門に配置して 鎮護したようなのだが、今となっては仔細は判らない。
  4. 古記によると、中世の国府の守護として、 鬼門の方向に位置する「台明寺」を 鎮護社としていたことが見える。 と云うのは、当時、この「台明寺」は、天智天皇の御代より 国家鎮護の道場とす とあり、國指定の「祈祷所」であった。


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